今、僕が興味を持っていること ~僕が考える、人が人である意味とは Part 1~
こんにちは、はるきです。
見てくださっている皆様、いつもありがとうございます。今回から読んでいる人は初めまして。
あ、前回の記事のウケがよくて僕も少し手ごたえを感じています。まだの人は、こっちもぜひ読んでみてください。(→願わくば全部見てね笑)
unfinished-sasaharuki-update.hatenablog.com
さて、ここから数回に渡ってまた少し僕自身の考えの話をしますね。
僕は今年が始まってからさんざん言ってきたように、ブログをやってなかった空白期間にたくさんインプットしてきました。
それを仮に形容するのであれば、“これからの世界の在り方”です。
アバウトな言い方ですが、恐らくこれが一番僕のやっていること・興味の対象を意味しています。
テクノロジーの変化であらゆるものが変わる、それは働き方、恋愛観、死生観、寿命、家族の在り方。僕らも含めた“世界の全て”が変化を強いられます。
その中で、“人が人である意味”をどこに“見出せば”いいのか。ここについての解釈を今日はお話しさせていただきます。これから数回に分けて本質的な僕の話を理解していただく上で、まず必要なことを説明させていただきます。
まず、最初に大事な質問をひとつ。
皆さんは、ご自身が“生まれた意味がある”とお考えですか?
ご自身のその答えを用意してから読み進めてください。
思うに、僕が生まれたことには“意味”はありません。あるのは、生まれたという、“事象”です。
この言い方にも、もちろん含みを持たせています。
僕は、この世界は“事象・物質と虚構”でできていると思っています。(→またこれもそのうち説明しますね笑)
つまり、僕の解釈では、“あらゆることに意味はありません”
もちろん、このブログを読んでいる“あなた”にもです。(→怒らないで読み進めてね笑)
少し説明を付けたします。
僕は、意味は“ある・ない(自動詞)”ではなく、“見出す・見いださない(他動詞)”が正しい関係だと思います。
“意味”という虚構を築き、すがるのは、人間の弱さであり、強さです。
“ある”と考えた人は、意味を自動的に発生するものとして自分を騙し、存在を肯定するために、合理化するために作っていると、僕は思います。
しかし、僕はこの“意味”に対する意識が大切だと思います。
人は自分でしか、自分に意味を付与・見出すことが出来ません。
この意識がないと、あなたは恐らく行動しないでしょう。
“こうありたい・なりたい”と思うあなたには、いつまでもなれないでしょう。
皆さんが“自分がどうしたいか・どう見せたいか?”と考えること自体は、恐らく人間の究極的な夢であると思います。
そこに気づくことが、次回以降の本質的なお話をする上で大切になります。
では、この“意味”に対する僕の見解をお話ししてうえで、もう一度聞きます。
皆さんは、ご自身が“生まれた意味がある”とお考えですか?
その答えは、皆さん自身がこれから“どう見出してくのか”にかかってます。もちろん僕にも。
今日はこのくらいにしておきます。
質問・意見等がありましたら、facebook, twitter, コメント等でお願いします。
VALUもよろしくお願いします。
さあ、アップデートしようか。