人のあるべき関係性とは (平等と対等の違い)
おはようございます、はるきです。
案外毎日やるって決めたらネタも見つかるし思考も捗るしいいですね。
さて、今日は人の関係性ってものについて少し話したいと思います。
"天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず" (参照: 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず - 故事ことわざ辞典)
皆さんこの言葉はご存知ですよね?福沢諭吉さんの言葉です。
皆さんこれについてどうお考えですか?
"人は皆平等である"べきかもしれませんが、そんなこと今までできたでしょうか??
僕は理想論だと思います。
人が平等(イコール) なのって、「人であること」くらいだと思います。
身体的性別も違う、育った環境も違う、話す言語が違う、体系が違う、頭の良し悪しが違う。
一体何が等しいのか。
思うに、明治期の日本における
"近代国民国家の成立"がなされた時期だったからこそ、通用した理論かなと思います。日本は島国でほぼ日本人、ほぼ日本語を話し、国民教育を整えられた時期だからこそ、"人(日本人)は平等である"論が通用したのかなと思います。その一時期だけ。
これだけ、テクノロジーが発展して、プラットフォームの規模として国が一番ではなくなった時代において、まったく反映できてないように思います。
正しい人の関係性とは、「平等では無いが対等であれ。」だと僕は思います。
対等というのは、「人と人が向かい合う姿勢」のことです。"意思"です。
頭の良し悪し、性別、財力、あらゆるものが違うから、バックグラウンドでありその人自身の根底にある哲学も全て違ってはいるけれども、人と人とが関係性を構築する上で、僕はしっかり同じ目線で向き合うべきだと思います。
日本語・日本人のよくわからないポイントとして、「言語表現が平等でも対等でもない」点です。先日、「先輩には頭が上がらないです。」って例の後輩ちゃんに言われたんですが、その時から考えていて、「そもそも日本語って言語表現に対等がないなぁ」と。無論、他の言語でも表現として見下すものや差別もあり平等ではないけれど、日本語はそれに加えて、対等じゃない。
先程の例で、僕は彼女に、「頭上げてもらわないと僕は君と話が出来ないよ」って返したわけですが、そういうことです。
立場という意味で、人は平等ではないけれど、向き合い方として対等ではあるべきです。
合理的に考えて、日本語の敬語とか「話し方」にとらわれて、「話す内容」に気が回らないバカ・つまらない権威に固執するクソは、何をお考えなのかぜひお聞かせ願いたいと僕は思ってます。いや、丁寧語は必要です。ただ、過剰に敬語を要求するなと。(御察しの通り、僕は丁寧には話しますが、基本的に敬語で話せません。)
日本人のディスカッションの出来ない理由の一つとして、これも大きな理由だと思います。平等と対等を理解していない。
皆さんはどうですか?この話を聞いて、何か変わったでしょうか?何かあなたに変化をもたらせたら、僕は幸いです。
あ、VALUもお願いします。
約9ヶ月しかないので、何か手を考えなくては!!日本出たい〜!!
さぁ、アップデートしようか。