今、僕が興味を持っていること ~僕が考える、人が人である意味とは Part 2~
皆さんこんにちは、はるきです。
さて、前回(以下の記事参照)に引き続き“人が人である意味”を考えていきたいと思います。
unfinished-sasaharuki-update.hatenablog.com
前回の記事で、“本質的にあらゆるものに意味はない”という考え方を僕はしている、と書きました。
これを人に関して分かりやすく言い換えると、“本質的に”というのは、“潜在的に”と言い換えてもいいかもしれません。
要は、“人間だけが特別である”とか、“人の命は尊い”みたいな、“根拠も何もない思考停止の選民思想”は全く意味をなさない、ということです。
巷で耳にするかもしれませんが、僕たちは“第4の革命”というのを経験しつつある世代です。(→これについては詳しく別で書きます。)
それは要は、テクノロジー・学問等の発展の過程の中で、これまでの考え方・常識・価値観(主に人間の優位性という幻想)がどんどんなくなっている、ということです。
それがこれまでも3回あり、今は4回目を経験しつつある、ということです。
今回の革命で“人間の優位性という幻想”に牙を剥いているのは、皆さんお察しの通り、“AI・コンピュータ”です。
“思考する”というそれまで、“人間だけのもの”と思っていたものが、“自分たちの生み出したもの”に劣るようになる。
みなさんご存知のように、コンピュータは“究極に合理的なマシン”です。
その点で、人は絶対に勝てません。
では、どのようにして人は第4の革命以後を生きていくのでしょう。どこに“人が人である意味を見出すのでしょう?”
僕は、これについてすごく考えました。そして、一見おかしなものでしたが答えを出しました。
それは、“非合理的である”という点です。
「????」って感じですよね。
しかし、僕はここしかないと思います。
どういうことか、分かりやすい例えを使って説明します。
人は、こんな状況が“あって当たり前”ですよね?
「ピーマンは好きだけど、にんじんは嫌い」、「人前でしゃべるのは苦手だけど、スライド作るのは得意」、「絵は描けないけど、歌は歌える」
一方、機械がこうなったらどうでしょう?
「エクセルは作れるけど、ワードの文字変換はへたくそです」「高画質な画像はいくらでも探せるけど、保存したって割とデータなくします。僕ストレージがほかより無いんです」
こんな感じで、
人は、“非合理的、多様で個性的”でないと、意味を見いだせないのです。
機械は、“合理的で同質的”でないと意味はありません。
機械は、“タイプ・型”じゃないと意味がないわけです。皆さんがお使いの機械が、会社のものとで「ボタン配置が違う」や、ましては「得意不得意」があったらどうしますか? 誰が使うんだ!!って感じですよね?
一方、人は“インスタンス・製品”じゃないと、恐らく第4の革命以後は意味を見いだせないでしょう。
とはいえ、70億のハードの中で差別化を図るわけですから易しいものではありません。
しかし、出来なければ機械に使われるか、勝手に滅んでいくだけです。
そしてこれも、仮に第5の革命が来た時に崩れる可能性が、僕は高いと思います。
僕がタイトルで“人が人である意味”というものも、僕の定義でいうと“見出す”ことをしないといけない状況にある、ということです。
“人の優位性という幻想”は、革命の度に、その地位を追いやられてきました。
そして、今回の革命で僕らが意味を見出さなけらばならない“幻想・虚構”が、“人は非合理的であり、多様である”というところだと思います。
恐らく現段階の最後の砦が、ここです。
以上が、僕の見解です。
皆さんは、どのようにお考えですか?
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